北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長と韓国の文在寅大統領は9月19日の会談で、北朝鮮が寧辺核施設を永久廃棄することなどを盛り込んだ「9月平壌共同宣言合意書」に署名した。トランプ米大統領はこれを「とても興奮している」と評価し、2回目の米朝首脳会談に意欲を示す。9月25日の国連総会で行った一般討論演説では「金委員長の勇気に感謝する」とも語った。しかし、北朝鮮の「完全かつ検証可能で不可逆的な核廃棄(CVID)」は見通せていない。むしろ、遠のいている印象さえ与えている。

 北朝鮮が寧辺核施設の永久廃棄を宣言したのは、あくまでも米国による「相応の措置」が条件だ。寧辺核施設は老朽化が進んでおり、米政府は寧辺以外にもウラン濃縮施設があると分析している。金正恩氏は、東倉里の弾道ミサイル発射台とエンジン実験場を廃棄するとも約束したが、移動式発射台(TEL)を配備している現在では、固定式発射台の戦略的重要性は低下している。北朝鮮は、米政府が求める全ての核施設のリストと廃棄期限も示していない。北朝鮮が約束しているのは、今後核兵器を「製造」しないことであり、すでに「保有」している核兵器は不問に付すことを求めているのだ。

 北朝鮮がCVIDに踏み切る可能性は低いといわざるを得ないが、その可能性を完全に否定することもできない。トランプ氏の視線の先には、11月の米中間選挙だけではなく、2020年の大統領選もある。米朝交渉が「失敗」の烙印を押されればマイナス材料となるため、「先制攻撃」をちらつかせながら北朝鮮に合意を迫るとみられる。体制転覆を恐れる金正恩氏が最終的にCVIDを受け入れることも全くないわけではない。

 だが、北朝鮮が核兵器を完全廃棄したとしても、それが北東アジアの安全につながるとは限らない。日本にとって不利な安全保障環境に身を置くことになりかねない。

 北朝鮮が核武装を解除しても、北緯38度線の軍事境界線周辺の火砲が撤廃されることは考えにくい。「9月平壌共同宣言」では軍事境界線を中心に南北計10キロの緩衝地帯を設けることが確認された。だが、ソウルは軍事境界線から約50キロの距離にあり、北朝鮮の多連装砲などが緩衝地帯の外側に配備されても、ソウルは射程圏内にある。これに対し、平壌は軍事境界線から約170キロの距離にあり、北朝鮮の局地的な優位は揺るがない。

 北朝鮮はこれまで、核開発の脅しで自国に有利な交渉条件を引き出す外交スタイルをとってきた。北朝鮮がCVIDを行っても、外交スタイルが激変するとは限らない。そうなれば、通常戦力による攻撃やテロで状況を打破しようとする事態も、十分に想定しなければならない。

 ここで振り返っておくべきは、北朝鮮の核開発が明るみに出た1990年代以前の北朝鮮だ。1968年、北朝鮮は韓国の朴正煕大統領(当時)を襲撃するため、ゲリラ要員を青瓦台(韓国大統領府)の至近距離まで接近させた。1973年に朴正煕氏夫妻の銃撃事件、1983年にラングーン爆破テロ事件、1987年には大韓航空機爆破事件も起きている。

 しかし、北朝鮮の核開発が明るみに出て以降、北朝鮮によるテロ行為は比較的沈静化している。2017年2月にはマレーシア・クアラルンプールで金正恩氏の実兄、金正男氏が暗殺された。だが、これは国内権力基盤固めの一環で、1960~80年代の国際的テロ事件とは異なる。2010年には韓国海軍哨戒艦「天安」沈没事件、延坪島砲撃があったが、核交渉が手詰まりになる中で、通常兵力による威嚇で事態を打開しようとしたというのが日米韓当局者の一致した見方だ。

 核カードを失った北朝鮮が「先祖返り」する事態は決して否定できない。核実験やミサイル発射など、米国を交渉に引きずり込むための手段がなければ、局地的な武力行使に頼ることもあり得るのは「天安」沈没事件や延坪島砲撃のケースが示している。つまり、北朝鮮が核兵器を放棄すれば、核攻撃の危険性は遠のくものの、通常兵力による攻撃やテロの危険性は増大する恐れがあることになる。

 こうした危険にさらされるのは韓国だけではない。日本の排他的経済水域(EEZ)にある日本海の好漁場「大和堆(やまとたい)」付近での北朝鮮漁船による違法操業が続いており、こうした漁船に紛れて工作員が日本漁船に危害を加える事態は十分に想定できる。

 もちろん、朝鮮労働党体制が「穏健化」し、局地的攻撃やテロと無縁の国家になる可能性もないわけではない。しかし、その可能性だけを前提に外交・安全保障政策を立案するのはあまりにも危険だろう。現在の米朝交渉と、北朝鮮の核廃棄に向けた「進展」は、多くの人にとって歓迎の対象となるだろう。ただし、北朝鮮のCVIDの可能性は極めて低く、朝鮮労働党体制が「穏健化」する可能性も決して高くはない。北東アジアの安定という「バラ色の未来」は、いくつもの偶然が重らない限り実現しない「奇跡」だと認識することが重要である。

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