重要なのは、スイッチのオン・オフは予定調和的に事前にDNAによって定められていないこと:複雑系や自己組織化の理論枠組みとの関係性

 前回の投稿【シリーズAI探究㉔】でご紹介したように考えるのがエピジェネティクスと呼ばれる研究分野です。遺伝子の塩基配列それ時代による細胞の表現型の決定メカニズムをジェネティクスによる決定と呼ぶのに対し、遺伝子の塩基配列それ時代ではなく、遺伝子のオン・オフの並びパターンによって、細胞の表現型が定まるメカニズムを、エピジェネティクスと呼びます。

 ここで大切なのは、ある細胞では、その細胞核にある塩基配列(DNA)のうち、何番目と何番目の塩基(3文字一組の遺伝子)のスイッチを「オン」にする(遺伝子を発現させる)のかということそれ自体は、当の塩基配列(DNA)に自身によってはすべてあらかじめ定められているわけではないことです。

 個々の遺伝子のスイッチが「オン」になったり、「オフ」になったりする背景には、細胞内にある無数の酵素や、酵素以外のタンパク質や化学物質が、個々の遺伝子に化学結合することで、個々の遺伝子が「メチル化」したり、「アセチル化」したり、「ヒストン」と呼ばれる塩基配列がまきついている内側のタンパク質が化学的な性質を変化させたりするといった、無数の化学作用が積み重なって、(スイッチの「オン」「オフ」の原因として)作用しているのです。

 そして、そのような「化学的な作用」の範囲は、当の細胞内における酵素やホルモンやタンパク質や化学物質の挙動にとどまらず、隣接する別の細胞から受ける化学的な影響や、遠く離れたところにある(別の臓器の)細胞から流れてきた酵素やホルモンからもたらされる化学的な刺激までも含むものなのです。

 こうしてみると、ある細胞における塩基配列(DNA)の使い方(スイッチの「オン」・「オフ」の入れ方)は、一見ランダムで無秩序にみえる無数の(生体内の)化学物質や細胞どうしの相互交流(相互影響)の折り重なりから発生しながらも、結果として、この領域の細胞群は、心臓を組成しており、また別の領域の細胞群は、眼球を形成しているなどといった、結果としてできあがる形成物を全体としてみると、形の上でも、機能の上でも、実の巧妙に秩序だった(全体として)調和のとれた生体組織を生み出していることは、驚嘆すべき偶然の産物のように思えてきます。

 ところで、このような、一見、なんら意味のあるパターンがありそうにみえない、ランダムで無秩序な要素(構成契機)どうしが相互影響・相互触発しあうなかから、全体としては秩序のとれた要素の振る舞いの関係性=秩序がうまれてくるような出来事は、この自然界で数多く見つけることができます。

 このような現象は、「複雑系科学」とよばれる数理モデルの理論や、「自己組織化」の理論とよばれる理論枠組みが研究の主題とする出来事なのですが、そこでは、上に述べてきた出来事と同じ構造を持つ(かもしれない)事象として、「隣の鳥と近づきすぎず、離れすぎず、ぶつからないように」飛んでいるだけの鳥が数多く集まると、どの鳥も群れ全体の飛行方向について指揮したり、指し図を出したりはしていないにもかかわらず、鳥の群れ全体としてはきれいに、整然と秩序だって、群れの形を維持したまま、障害物を避けながら飛行しているように見える現象があります。

 また、この他にも、「身近な知りあいが最近よく聞いている音楽を自分も聞く」という人が一定数、集団をなすと、音楽の流行が、一定の周期とダイナミズムで、発生しては、別の流行へと移ろいでいく、といった流行現象の決まった「パターン」を生み出す、といった現象もあります。

 このように、人間を始めとする多細胞生物の体を構成する「ある特定の形」と「ある特定の機能」をもった複数の「細胞群」が、受精卵という「ひとつの胚」から、細胞分裂を繰り返しながら、「形態分化」と「機能分化」を繰り返しながら、自発的に・内発的に・自己発生的に生じてくる様子(過程)は、遺伝子科学(genetics)における「エピジェネティックス」(epigenetics: 塩基配列それ自体は変わらないものの、そのスイッチのオン・オフの違いが個々の細胞の形と機能を変えるという現象を説明する理論)と、数理モデルにおける「複雑系科学」や「自己組織化」の理論とが学際的に組み合わさることで、生物個体の発生過程に対する私たちの生命理解は、より深まってくるのかもしれません。

エピジェネティックスについて:少し掘りさげた説明

 塩基配列は、数珠のように1次元的に連なるヒストンと呼ばれるビー球状のタンパク質のまわりに巻きつきながら、多くのタンパク質が結合する形で二重らせん構造をして、その二重らせん構造がさらに折りたたまれて染色体の形になって、細胞核のなかに存在しています。

 塩基配列のなかの個々の遺伝子座に配置された個々の遺伝子に対するスイッチのオン・オフは、個々の遺伝子座の位置にあるヒストンが、メチル化と呼ばれる化学的な状態の変化を受けたり、アセチル化と呼ばれる化学的な変化を受けることで、その遺伝子座に配置された遺伝子が、mRNAに転写されにくくすることなどによって実現されます。

 ヒストンのメチル化やアセチル化以外にも、様々なタンパク質が個々の遺伝子座に配置された遺伝子にくっつく(結合する)ことで、その遺伝子がmRNAに転写されることを阻害することがおきます。

 これが、塩基配列のなかにある特定の塩基(遺伝子)がmRNAに転写され、さらにmRNAが特定のアミノ酸の配列に翻訳されて、タンパク質をうみだす、遺伝子の発現プロセスをオン、オフする仕組みです。

 ところで、ある細胞のなかで、どの化学物質やタンパク質がどの位置のヒストンや塩基(遺伝子)に作用して、ヒストンのメチル化やアセチル化を引き起こしたり、塩基の化学的な状態を変化させるのかは、あらかじめ塩基配列の側ですべて決められている(すべて予定されている)のではなく、細胞の側の事情で決まってくる場合が多いようです。

 それは、細胞が細胞膜を通して、細胞の外からどのような栄養分を調達してくるかや、他の細胞からどのような酵素やホルモンが届いてくるかなど、近傍にある細胞や遠隔地にある細胞との生化学的な相互影響によって、決まる部分が大きいと、近年考えられ始めているようです。

複雑系科学:CMLモデルとGCMモデル

 このように、隣接する近傍の細胞との相互影響や、遠く離れた細胞どうしの相互影響ということを視野に入れた場合、複雑系科学において、「近くに位置する」「近隣の」「複雑系」の状態にある「系」(=非線形なロジスティック写像関数など)それ自体が、無数に影響を及ぼし合う「複雑系を要素にもつ複雑系」の時系列挙動パターンを数理モデルとして描写する「結合写像格子」モデル(Coupled Map Lattice model) や、ある程度離れた範囲に位置する複数の「複雑系」どうしまでの相互影響過程をモデル化した「大域結合写像」モデル (Globally Coupled Map model)も、生命科学におけるエピジェネティックの理論と、今後、かかわり合いがでてくるかもしれません。

 同じ塩基配列を備えた細胞が、細胞分割を繰り返すなかで、このような細胞どうしの相互影響の作用のあり方が、個々の細胞集団によって、時間の流れとともに次第に異なる相互影響作用をするようになり、その相違が時間の経過とともに、非線形なかたちで次第に積み重なることで、ある空間領域の細胞群と、別の空間領域の細胞群とで、エピジェネティクな塩基配列の発現スイッチのオン・オフパターンが変わることで、細胞群の形状構造も担う機能も互いに異なるものに変わり、形状分化と機能分化をしていくのではないでしょうか。

 そして、その結果、ある空間領域の細胞群は皮膚細胞群をなし、また別の空間領域の細胞群は、神経細胞群をなし、また別の空間領域の細胞群は、それぞれの臓器を構成する細胞群になる、のではないでしょうか。

 隣り合う細胞どうしの局所的な相互影響作用や大域的な相互影響作用が、複雑系科学におけるCMLやGCMで数理モデル化されるような時系列過程によって、個々の細胞内部の生化学的な状態を変化させ、その化学的な状態の時系列変化が、個々の細胞内部の塩基配列の発現スイッチのオン・オフに関与する。そしてそのオン・オフパターンの違いが、(細胞ごとに独立して塩基配列を襲う突然変異を除いて)同じ塩基配列をもちながらも、個々の細胞の形状や機能の表現型を、しだいに離れた場所にある細胞のそれとは異なるものに変えていく。これが、多細胞生物の成長における細胞の形状分化と機能分化のメカニズムなのではないでしょうか。

 複雑系科学の自己組織化理論と、細胞間の生化学的な相互作用と、細胞の生化学的な状態の変化がその細胞がもつ塩基配列の発現パターンに影響をもたらすエピジェネティクスの研究領域とのつながりが、これからの生命の個体発生過程の理解をもたらすフロンティアの研究領域なのかもしれません。

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AI研究家 小野寺信

AI研究家 小野寺信

1944年、長野県生まれ。カナダ在住。1930年代の「物」論考、「哲学への寄与」論考など、いわゆるハイデッゲルの中期思想と、西田幾多郎ら京都帝大の「場所の論理学」の思想の架橋を志すも、九鬼周造の「偶然性の哲学」の文章に触れて、己の非才を悟り、断念。計算機科学と知能の計算論的再現に惹かれ、人工知能の研究に励む日々を送る。若いAI産業人や大学・大学院生に対して、カオス理論と身体性に立脚した「米国の後追い」ではない、我が国自身の「AI研究アプローチ」が実在することを知らせる必要性を痛感し、連載をスタートした。