安倍晋三首相が2015年に提唱した「1億総活躍社会の実現」から3年近くが経った。そのメニューには、親などの介護のために仕事を辞める「介護離職」をゼロにするなどの魅力的な言葉が並び、アベノミクスの「新・三本の矢」として期待が集まった。だが、現実は思ったように回らず、依然として介護離職者は年間10万人近くに上る。介護職員の人材不足や行政の財政問題なども解決のメドはたっておらず、超高齢社会の厳しさの中で「かけ声倒れ」になるとの懸念は消えない。

 総務省が7月13日に発表した「2017年就業構造基本調査」によると、2016年10月~2017年9月に介護や看護を理由として、離職を余儀なくされた人は9万9000人に達した。このうち、女性は7万5100人と全体の8割近くを占め、男性も2万4000人に上る。

 安倍政権の「介護離職ゼロ」に向けた緊急対策では、介護休業93日の分割取得や介護休業給付の水準引き上げ(40%→67%)など、働く家族への環境改善・支援策が盛り込まれた。政府は2020年代初めまでの「ゼロ」を掲げるが、介護離職者は5年前の2012年の前回調査(計10万1100人)と比べて、2000人減にとどまっている。

 働きながら介護をしている人は約300万人いるとされ、「非正規の職員・従業員」では男性の介護日数は「週に6日以上」が29・8%、女性も32・9%と最も高かった。「正規の職員・従業員」でも、女性は「週に6日以上」が30・7%で一番高かったが、男性は「月に3日以内」(32・5%)がトップで、「週に6日以上」は20・3%だった。

 ある日突然、身内に介護が必要な事態が訪れ、兄弟姉妹で懸命に介護してきたものの、それでも回らずに離職を余儀なくされる。介護は、それ自体の精神的・肉体的負担なものにとどまらず、仕事を失ったことに伴う「収入減→生活苦」が衝撃をより大きなものにしていく。

 東京都練馬区に住むAさんは、名門私立大を卒業後、広告代理店で20年近く勤めた40代の男性だ。責任感が強く、仕事は大きなミスをすることなく無難にこなし、同僚の信頼は厚かった。「やがては幹部になりたい」。そのような夢を描いた矢先、母親に乳がんが見つかった。

 「まずは切除し、その後に抗がん剤治療をしていけば治るというのが医師の見解だった。家族はその言葉を信じて、あまり重く受け止めてはいなかった」。手術は無事終わり、抗がん剤治療も順調にいったはずだった。だが、その3年後、今度は別の場所でがんが発見された。今度は肺だった。高齢となった母親の体力的な問題もあり、治療は抗がん剤のみで進められた。

 「転移しているわけだから切除しても、また繰り返しになる。母親の体力がそれに耐えられるのかと家族で相談したが、もう身体を『失う』姿は見たくなかった。あとは抗がん剤治療を信じるしかなかった」と振り返る。医師と相談しながら抗がん剤を変え、しばらくして母親は自宅に戻ることができた。落ち着いた表情の母親を見て、家族には安堵が広がった。

 だが、母親の姿はそれまでのものとは異なっていた。自力ではトイレに行くことができず、常に鼻からチューブで酸素を送られている。病院からの話に従って、介護認定手続きをすることになった。週に1日ずつ、医師と看護師が自宅に訪問することになった。体温を測り、食事や排便の状況を確認し、本人を勇気づける会話がなされた。母親も医師や看護師が訪れる日を楽しみにするようになっていった。

 とはいえ、日々の介護を担うのは同居する父親と近くに家を建てた自分、電車で30分ほどの場所に住む姉の3人だった。父親は70歳を超えても毎日出勤する。姉は子供2人の通園や体調を崩しがちな義母のお見舞いに忙しい。家族内の力関係や余裕の有無で、実質的に介護時間の多くは男性のものとなった。

 朝6時に起床し、料理が作れない父親にかわって母親の食事を準備。自力ではほとんど食べられないため、スプーンで母親の口に運ぶ。トイレには肩を担ぎながら連れていき、その後ゆっくりとベッドに戻る。父親の出社後、体温や血圧を測り、酸素の状況を確認して、母親が就寝すると、ようやく自分も出社する。時計に目をうつすと、すでに正午近くになっている。

 男性の勤務中は、姉が「当番」だった。子供たちを習い事に送り、夕食の支度もしてくれた。18時に姉が帰宅すると、父親が会社から戻ってくる。そんな毎日を送り続けた。だが、男性の仕事先では、正午近くに「社長出勤」することへの不満も同僚たちから出てきた。勤務時間が短くなってしまう分は、集中して業務をこなすことでカバーしていたつもりだったが、職場は「体育会系」でもあった。短時間でも効率よくテキパキと仕事を処理する男性に対して、同じ勤務時間を働いていないとの怒りにも似た声が充満していった。半年に一度の「職務評価」も、職位の仕事ができるという点では満点に近かったが、「コミュニケーション」や「協調性」などの項目で大きく減点されていた。その結果、同期と比べて月給やボーナスが次第に低くなった。

 とはいえ、男性には年収1000万近い収入があった。親の介護があるため友人らと飲みにも行かず、資金面でのゆとりもできていった。だが、ある日、「なぜ自分がこれだけ頑張っているのに、少しも良い生活ができないんだ」との思いが脳裏に浮かんだという。毎日ギリギリの時間配分で、介護と仕事の両立を図り、ヘトヘトになって翌日を迎える。疲れ果てても、そこには「休日」はない。先行きの見えない不安ばかりが募る。職場では、そうした両立を褒めてくれるどころか、白い目で見られる。消耗は少しずつだが、確実にしていった。

 「親のために何でもしてあげたい、という気持ちは増していった。何としても救いたいと。でも、仕事をやりながら介護をするのは限界がある。今の仕事に就けたのも、元々は母親が自分を産んでくれたから。そう思ったら、仕事を辞めて母親のそばにいようと決心した」。男性は迷うことなく上司に電話し、そのまま辞職した。

 それからは24時間、母親のそばで暮らした。自分が子供の時、母親がずっと一緒にいてくれたように寄り添うことができた。仕事のストレスからも解放され、なんだか久しぶりに幸せを感じる時間だった。だが、その3カ月後、母親は急に体調を崩して帰らぬ人となった。男性には脱力感しかなかった。

 「すべてを捧げていた人がある日突然いなくなる。しばらくは何をしたら良いのか、今まで自分はどうやって生きていたのかも分からないほどだった。ふと、我に返った時、思わぬことが起こった」という。年収1000万円のサラリーマンだった男性のもとには、国民健康保険料などの支払いを求める納付書が届いた。その額を見ると10万円を超えていた。職を失っている男性の収入は、もちろん「ゼロ」。やむなく貯金を崩して支払うことにしたが、生活は苦しくなる一方だ。

 「あまり後先を考えずに離職した自分も悪いが、もう少し国はセーフティーネットを張ってくれていると思っていた。収入がゼロでも、前年の所得に応じて払い続けないといけない。毎月その支払いのことで悪戦苦闘している。今後どうするかを考える余裕もない」。バリバリのサラリーマン時代、高校や大学の友人からは頻繁に食事に誘われた。離職を知らない人からは今も声がかかる。だが、収入減を失った男性が行く余裕はない。「仕事を失い、親を失い、友人も失うかもしれない。自分の将来を考えると不安なことしかない」。

 現在は、かつての取引先が紹介してくれたアルバイト先で一定の収入を得ている。「もしも、人生をやり直せるとしたら離職しなかった?」と問うと、意外な言葉が返ってきた。

 「今がどんなに苦しくても、自分を産んでくれた親を守れなかったら、それはそれで後悔したに違いない。何回やり直せても同じ結果だろう」

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言論ドットコム編集部

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