西田幾多郎の『善の研究』の冒頭書き出しが示していたように、真善美は1つに帰一するのかもしれません。

 第12回目の今回は、ドイツの法哲学者 Werner Marx (1994年没)の『地上に尺度はあるか』(元裁判官にしてハイデガー哲学をベースとした責任哲学・法源哲学の研究者。生前にドイツ連邦共和国国家功労賞受章)を導きの糸に「AIは善悪の感情を持ちうるか(原理的に)」という問いに向き合います。

 Werner Marxや(今回は言及しませんが、ハンス・ヨナスらの)「責任哲学」から人間における「善悪の感情の哲学的基礎付け」の機序(仕組み、アルゴリズム)について論じ、それがAIにおいて人間と同じように発現しうるかを論じます。


■ 人間はどのように「善悪の感情」を体感するのか

 司法官(裁判官)にして「法源」の由来について深い哲学的な洞察を著した20世紀の知の巨人にヴェルナー・マルクス(Werner Marx。1929-1994)がいます。

 同氏が遺した数々の著書のうち、上妻精・米田美智子訳『地上に尺度はあるか――非形而上学的倫理の根本諸規定』(未来社、1994年。原題 “Gibt es auf Erden ein Mass? Grundbestimmungen einer nichtmetaphysischen Ethik”[1983年刊行]。英訳書の標題は、”Is there a measure on earth? Foundations for a Nonmetaphysical Ethics”[1987年刊行])が、この問いに答えるための1つの光を与えてくれています。

 大づかみに同氏の所論を要約すると以下のようになります。

 なぜ、私たちは他者の痛みを他人事として見過ごせないのでしょうか。なぜ、私たちは他者の苦しみや痛みをまるで「自分事のように」体感するのでしょうか。

 「他者」と「自己」とを皮膚で物理的に峻別された「別個の存在者」として了解せずに、「他者」と「自己」とが、<<どこかでつながっている>>という感覚に、私たちはしばしば襲われます。

 この感覚はどこから、どのようにして、私たちの身を包み込むのでしょうか。

 その仕組み(機序)について、Werner Marx氏は1つの見解を出しています。

 自分が「いま」・「ここ」に、己の存在を体験しているという自覚(ハイデッゲルの言い方では、<<意識の空間・開け>>の自覚)は、ハイデッゲルの用語では「存在了解」という出来事が起きているのだ、と捉えられています。

 Marxは、この私たちがみずから(自己)の存在を自覚する「存在了解」が起きる只中で<<その「私」が、周囲の「物」(Das Ding)や「他者」と居合わせた形で「いま」・「ここ」に出現している(「居る」・存在している)>>という感覚を伴うことに注目をしています。

 人は誰しも、自分自身が「いま」・「ここ」に「居る」という事態に気づくとき(自己存在の発見・体験)、つねに、「いま」・「ここ」に「居合わせた」<<他者>>や<<物>>(Das Ding)たちと、<<ともにあるという情感>>に包まれた有り様で、自己が存在していることの現場に、立ち合っている、というのです。

 <<みずからの存在を自覚しているという「いま」・「この瞬間」の出来事>>は、<<「いま」・「ここ」に「居合わせた」<<他者>>や<<物>>(Das Ding)とともに在る・有るという「根本気分」>>と、根を同じくしている(「等根源」性)という感覚。 <<「居合わせた他者」は、「私」といわば、<<存在論的に同じ源から>>「いま」・「ここ」へと出現している。>>という感覚。<<「いま」・「ここ」に、「居合わせた他者」や「物」と「ともに」―― 生き生きとした現実感・生命感を伴った「時の流れ」と「場所の広がり」(雰囲気・場の情感)を体感しながら――みずからの存在を体感(自覚)する>>

 その感覚の只中では、<<「私」と「他者」とは、互いに皮膚で、画然と区別された、互いに異なる実体(2者)なのではなく、「私」と「他者」とは、存在論的(ontrogisch)な次元の深みで、出自と来歴を同じうする「同士」・「同胞」である。>>。そう感じられるといいます。

 この「同士感情」・「同胞感情」(「根本気分」)こそが、「他者の痛みを他人事としてみすごせずに、あたかもそれが<<自分事であるかのように体感する」情念の源になっているのではないか、という洞察です。  ここから、他者に苦痛を齎すことを行ってはならないという「善悪の感情」が生じてくる。善悪の感情は、このように、存在論的に深く根を下ろした、人間の存立原理からおのずから・必然的に出てくる「根拠のある」感情であることが示されているように思われます。  ここに至って、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)が打ち立てた善悪感情に根拠なし、とする「神は死んだ!」とする言明は、根底から崩れ落ちるのである。《2へ続く

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AI研究家 小野寺信

AI研究家 小野寺信

1944年、長野県生まれ。カナダ在住。1930年代の「物」論考、「哲学への寄与」論考など、いわゆるハイデッゲルの中期思想と、西田幾多郎ら京都帝大の「場所の論理学」の思想の架橋を志すも、九鬼周造の「偶然性の哲学」の文章に触れて、己の非才を悟り、断念。計算機科学と知能の計算論的再現に惹かれ、人工知能の研究に励む日々を送る。若いAI産業人や大学・大学院生に対して、カオス理論と身体性に立脚した「米国の後追い」ではない、我が国自身の「AI研究アプローチ」が実在することを知らせる必要性を痛感し、連載をスタートした。
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