■バブル崩壊後の経済低迷による「自信喪失」とは異なる種類の「自信」を喪失しているのではないか

 以上、見てきたように「日本人が自信をとりもどす」という際の「自信」とは、単に「米国の後追いではない我が国独自のAIアプローチ」に対する「自信」を獲得することによって手にすることができるような、今日の「産業の米」「主力産業」における「日本の技術力」についての「自信」だけではない、のではないでしょうか。

 そこには「ビックデータを集めて」、「集めた情報を数学的・統計学的に分析して」、統計学用語がひしめく「分析結果が表示されたモニター画面を解釈して、評価して」「次に取るべき行動を、戦略的に決める」、これら一連のサイクルをあなたもやりなさいと、社会的な圧力にさらされながら要求されつつあることに、恐れとおののきを感じているのではないでしょうか。

 このサイクルをまわしていくことについて、多くの人たちは、「Google, Apple, Facebook, Amazon」に対して、「勝てる自信を感じることができずに」、心理的厭戦ムードに支配されているのではないでしょうか。

■日本人は数学にも論理にも交渉にも戦略策定にも優れた力を発揮してきた

 そこで今回は、こうしたサイクルを構成する要素のあれこれについて、「日本人」が実は素質として、「相当な才能」を秘めていることを、歴史の実例を、多少しつこいほどにながめていくことで、「自信をもてない」根拠を、1つ1つ突き崩していく(「できない」という「思い込み」を否定する「反証材料」を挙げていく)という試みをおこなってきます。

■「日本独自の言語創発アプローチ」が活きてくるのは、この「自信」の土台の上なのだから

 今回の記事をお読みになられた上で、上記についての「自信」を回復されたあとで、「米国の後追いではない」「日本独自の言語創発アプローチ」を紹介することで、各自の持ち場で、「日本のAI」を世界市場に向かって「商品提案」していく「覇気」と「気概」をもてるようになるのではないでしょうか。

 その意味で今回の記事は、メンタル面でのウォーミング・アップ体操をしていただくという位置づけです。

 以下、上記に述べたことを詳しく見ていきます。

■ バブル経済の負債を精算したのに、なぜ「自信」を取り戻せないのか

 では小泉純一郎政権期に、先送りにしてきた10年越しの経済構造問題であった「不良債権処理」を、ついに果たしたことで、バブル経済を「克服した」はずの日本人は、なぜ、今日「なお」自信を失ったままなのでしょうか。

 小泉政権の前の歴代自民党政権は、「不良債権の処理」を先送りにしつづけたために「根治」することのない病体を「もたせる」ため、大規模な財政出動を繰り返すことで、一瞬だけ効果のある「カンフル剤」を何度も何度も注入することで、総需要を刺激して上向かせる政策を実行してきました。

 実証経済分析の専門家は、その「乗数効果」は決して高くないことを指摘していたのに、永田町は耳を傾けませんでした。そして、公定歩合のスロットルを極限まで引き下げて、「実質ゼロ金利」の時代を到来させるもとで、民間企業の資金需要を喚起し、企業部門の設備投資支出をなんとか引き出そうと悪戦苦闘しました。

 しかし、小泉政権はついに問題の病巣である「不良債権の処理」を敢行しました(金融監督庁、後の金融庁は当初、邦銀メガバンクがどれだけの「不良債権」をストックとして抱え込んでいるのかすら、主務大臣以外の閣僚に対して、情報開示することを拒んだともいいます)。

 そして、政府累積債務の増大により「総需要曲線」に訴えかける財政政策の手も、『「伝統的な」金融政策』の手も(すでに実質ゼロ金利にまでスロットルが切られていたために)塞がれていたなかで、「総需要曲線」に訴えかけるケインジアン流の経済政策ではなく、「総供給曲線」に訴えかける「レーガノミックス」・「サプライサイド経済学派」流の「成長政策」に政策手段の活路を見出すことで、長きにわたり息絶えていた日本経済を、再び成長の軌道へと乗せることに成功したのでした(その副産物として、非正規労働者の増大と、非正規労働者と正規労働者の間の待遇格差の問題が生み出されたことも事実です。そうした世帯の子供に光を当てると、そこには「子供の貧困」の問題が浮かび上がります)。

 さて、小泉政権が採った経済政策の是非と、それがうみだした副作用の問題はいったん脇に置き、なにはともあれマクロ経済でみた限り、日本経済は(苦境に追い込まれた個人というミクロの視点については、いまこの議論の文脈上では、眼をつむり)成長路線に乗ることができました。

■「“GAFA”には勝てない」と感じてしまう「及び腰」は何に由来するのか

 しかし、私たちはGoogleやApple, Facebook、Amazon、これらいわゆる”GAFA”を前にして、なお尻込みし、萎縮しているのではないでしょうか。その心の持ち方は、あたかも、「学校のテストで悪い点ばかりとる子供が、秀才の同級生を『憧れの目』で眺めながらも、『自分はあのようにはなれない』と、どこか、負い目を感じている」かのような心境ではないでしょうか。

 何が日本人をして、そのような想いへと追い込んでいるのか。

 政府債務の増大と、国民年金制度の存続に対する不安といった「家計の不安」や「将来への不安」とは、この「負い目」の感情は、質が異なるように思われます。

■ 「数学と統計学」(数理統計学)と「データ分析」に対する苦手意識という「負い目」

 前回の記事で述べたとおり、「AI」(人工知能)を支える技術は、「数理統計学」を1つの中核とする数学です。
「電卓の時代」の高度経済成長期からバブル時代にかけての「日本のお家芸」であった「エレクトロニクス産業」と「半導体産業」も、いうまでもなく、数学と物理学(「半導体」は特に「量子力学」「場の量子論」の塊)の塊です。

 しかし、「エレクトロニクス」と「半導体」を支える技術については普通の人々は関心をもつことはありませんでしたが、
「AI」が見ると頭がいたくなる「σ記号やΣ記号」をもつ「相関係数」や「標準偏差」などの「統計学」と、「大量データ(ビック・データ)」の「塊」であることは、一般の人々にも、大きなスピーカーで、伝えられているように思います。

 「AI」について、さらにつっこんで踏み込もうとすると、さらに難しそうな「数理統計学」の数式や、「最適化理論」「OR(Operations Research)」や、数珠繋ぎになった「お団子」(ニューロンの模式図)が、「誤差逆伝播」の「偏微分の勾配損失関数」でつながれた「深層ニューラル・ネットワークモデル」(「ディープ・ラーニング」)が、「入門本」のページから眼にとびこんできて、青ざめて、「ピーマンがきらいな子供」が「ピーマン」を目の前にしたときのような表情に変わってしまうかのような心持ちに、すっかり支配されてしまう。「だめだ、私には分からない」という「諦念」とともに。

《3 「日本は『AI=数理統計学の塊』に強い」に続く》

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AI研究家 小野寺信

AI研究家 小野寺信

1944年、長野県生まれ。カナダ在住。1930年代の「物」論考、「哲学への寄与」論考など、いわゆるハイデッゲルの中期思想と、西田幾多郎ら京都帝大の「場所の論理学」の思想の架橋を志すも、九鬼周造の「偶然性の哲学」の文章に触れて、己の非才を悟り、断念。計算機科学と知能の計算論的再現に惹かれ、人工知能の研究に励む日々を送る。若いAI産業人や大学・大学院生に対して、カオス理論と身体性に立脚した「米国の後追い」ではない、我が国自身の「AI研究アプローチ」が実在することを知らせる必要性を痛感し、連載をスタートした。
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