■他にもある「不安の原因」(2)日本人は戦略的思考に「弱い」
もう1つ、「ビジネス・アナリティックス」を宣伝文句にする日本IBMの広告をみたり、ビジネス人向けの「AIを使いこなす本」を読んで、「客観的なデータから、次にとるべきもっとも賢明な行動を選択できるようにならなければならない」という文句をみて、日本人は、「これはだめだ。アメリカやイギリスやヨーロッパには敵わない」――「だって、こないだの戦争で、日本人はこれが駄目(稚拙)だったから、アメリカにこてんぱんにやられたんじゃないか」。
「敗戦アレルギー」にもはやとらわれていはいない、今日の10代・20代の若者は別として、中高年の日本人の多くは、「先の大戦」で、「インテリジェンス」をもとに「戦略」を立てる力で決定的に劣っていたことで負けた日本。「レーダーや火炎放射器や、足のながい長距離爆撃機「B-25」、そして、原子力爆弾」といった「科学力」で、圧倒的に劣っていたことで、負けた日本が、連想記憶のどこかで、「AIが苦手(出あるに違いない)日本人」という自己イメージとつながっているのではないでしょうか。
■幕末の徳川幕府も、日露戦争の日本も情報と戦略分析に長けていた
日露戦役時の日本の国家首脳たちは、日本の力量とロシア(ロマノフ王朝)の力量の双方を良く調べ尽くした上で(「敵を知り、己を知っていた」)、日本の財政的・経済的・人的・軍事的能力が伸び切ってしまう前に、アメリカ(セオドア・ルーズヴェルト大統領)に講和を依頼して、日本が最低限受け入れ可能な線で、日露講和に持ち込むという明確な「終戦戦略」と「戦後秩序の構想」を、開戦前から定義していました(それでも、ポーツマスに講和条約の交渉に向かう小村寿太郎全権は、「日本が最低限受け入れ可能な線」でロシアと講和を結んだら、日本国民は怒りに燃え盛り、自分は国民の怒りの熱狂のなかで揉みくちゃにされるであろうことは予想していました。これは、「日比谷焼打ち事件」などとして、現実のものとなりました)。
また、明石 元二郎をロシア国内に忍び込ませて、ロマノフ王朝を内側から突き崩す諜報・謀略工作を行うこともしました。(なお、ロシアで世界最初の共産主義革命が成功したのは、第一次世界大戦で帝政ロシアと敵対していた帝政ドイツが、ロシアを「内側から突き崩す」ために、「レーニン」[活動家としての名前でこれは本名ではない]ら活動家たちを金銭面その他で強力にサポートしていたことで、可能となったことが近年の研究で明らかになりつつあります)。
さらに、日本人の間では黒船を前にした「弱腰外交」を展開し、「不平等条約」を締結してしまったというイメージが定着してしまった幕末の2つの外交交渉(林大学頭・ペリー提督の外交交渉(「日米和親条約」に結実)および岩瀬 忠震・ハリスの外交交渉(「日米修好通商条約」に結実))も、近年の研究で、ペリーやハリスが舌を巻くほどの見事な外交談判・外交交渉能力を林や岩瀬は見せたのであり、結実した両条約には、当時の幕府の「国益」がしっかりと条約文に明文として書き込まれ、反映されていたことが明らかになっています。
欧米人を前にして、「交渉に弱い日本人」「戦略的思考力で見劣りする日本人」という自己イメージは、当初から、「根拠なきもの」であった可能性が、ここに見えてきます。
■「先の大戦」のなかにも、情報と戦略分析に優れた日本人がいた
結果として、当時からみても国力の差から判断して、「無謀であった」と判断できた「対米戦争」に突入していった当時の日本も、アメリカやイギリスがそうしたように、自国の最高水準の知性を結集して、現状の情勢分析と、いくつかの現実的なシナリオ別の今後の情勢推移の様相をシミュレーションする取り組みを、国を挙げておこなっていました。
内閣総理大臣直属の機関として設置した「総力戦研究所」(陸海軍のほか、霞ヶ関の各省庁、商社・海運会社、新聞社・通信社などから平均年齢33歳の若い俊秀を動員)であり、その数年前に陸軍省経理局のもと、東京帝国大学や満鉄調査部などから100名以上の最高水準の学識経験者・有識者を動員させた「陸軍省戦争経済研究班」が、それです。
また、インテリジェンス(情報の収集・分析)についても、中立国であったスペインにあった在スペイン日本公使館を舞台に、アメリカの国内情報を集めて、東京に伝えていた「東機関」(暗号文は米側に解読されてしまってはいたものの)があり、ストックホルム駐在陸軍武官・小野寺 信によって、「独ソ開戦の兆候」や、ヤルタ会談における「ソ連の対日参戦・日ソ中立条約の破棄」が決定されたこと(ヤルタ協定の『極東密約』)について、機密情報が得られており、東京に「至急電」として打電されていました。
当時の日本は、日本の対外政策を決定するに際して、「第一級の意味(価値)」をもつこうした情報(インテリジェンス)をもとに、合理的な意思決定を国(具体的な会議体としては、「大本営政府連絡会議」(1944年8月以降は「最高戦争指導会議」と改称)と「御前会議」)として、行うことができませんでした。
その背景・要因の洗い出しと、再び同じ「不合理」な意思決定に陥らないために、解決策としてなすべきことはなにかについては、今回の記事の後半で向き合います。そこでは、合理的な批判精神よりも、陸軍や海軍内部の「人間関係への配慮・慮り(おもんばかり)」が優先された可能性や、ある方向へと答えが収束していく「組織内の空気」・「世論の空気」に理性にもとづく意見具申が呑み込まれていった可能性(以前の回で論じた「個」と「集団的熱狂」「集団」との緊張関係が関係してくる)に着目します。
その上で、本稿では、日本人の特徴として、いまでも機会を捉えて繰り返し指摘されるところの「空気に呑まれる日本人」というこの気質のなかで、「合理的・批判的、数値に基づいた客観的・数理的な分析に基づく行動の選択」をいかにして「貫き通す」ことができるのか、それを保証しうる方策・手立てとはなにか、という課題に対する小野寺の暫定的な答えを、「現代をいきるわたしたち日本人」全体に対して提示する形で、示したいと思います(なお、数理シミュレーション・モデルも、入力すべき「数値」が、とりくむ問題に照らして十分妥当でなければ、誤った結果がひきだされることは、前回の記事の最後に、「米国発の誤りである「サブプライム・ローン問題」を取り上げたことを思い出してください。アメリカ人も歴史上、繰り返し誤ちをおこしています)。
■日本も最高水準の有識者を参集させて、開戦後の日米戦争の戦況推移シミュレーションを実施していた
日米開戦の前年(1940年)の9月30日に勅令第648号によって内閣の直下に新設された「総力戦研究所」(1945年4月1日付けで廃止)は、軍官民の俊秀たちを結集させた戦争シミュレーションの結果、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」とする「結論」を、開戦4ヶ月前の1941年8月27・28日の両日に、近衛文麿総理大臣・東条英機陸軍大臣に報告しました。
結果、陸相・東條は、あくまでこれはシミュレーション(机上演習)に過ぎない。現実に戦争を行えば何が起きるかわからない。負けるとおもっても勝つことはままあるのである、といった類のことを述べて、結果を真剣に国策決定に反映させることはありませんでした。
しかし、当時の日本人も、内閣直属の研究機関として、軍官民の英知を結集して、こうした国家総力戦の経過シミュレーションを行い、総理大臣や軍部大臣に報告していた事実は、しっかりと評価すべきではないでしょうか。
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AI研究家 小野寺信

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