■論理的思考力と弁論術に強い日本人

 神田千里氏が著した『宗教で読む戦国時代』(講談社選書メチエ)という本があります。

 同書では、戦国時代の日本に到着したキリスト教宣教師が、彼らを向かい受けた禅僧たちをどう評価していたのかを史料から解き明かしています。

 そこで紐解かれた史料からは、宣教師たちがイエズス会やヴァチカンの本部に宛てて発信した報告書のなかで、彼らの布教活動に対して、当時の日本の禅僧がキリスト教の教義について論理的な反論・論駁を行っていた事実が浮かび上がってきます。

 ここで注目したいのは、キリスト教を論駁する様子に関心を寄せているのではなく、当時の日本の禅僧のディベート力の高さに、当時の宣教師たちが高い評価を下していた事実です。

 宣教師のなかでも、とりわけ、その軍隊的な厳しい修行と高い教育水準で知られたイエズス会宣教師の知的レベルは当代随一でしたでしょうから、その彼らをして高い評価を得さしめた当時の日本の禅僧の弁舌の力を知るとき、「日本人はディベートは苦手」といった現代日本人がもつ固定観念に対する1つの反証例を見ることができます。

 「仏教とキリスト教との出会い」と題された第1章第2節の書き出し冒頭部分を少し長いですが引用してみます。

 なお、文中に出てくる「フロイス」とは戦国時代(慶長年間)の日本にキリスト教の布教を目的として着任したポルトガル人のイエズス会宣教師 ルイス・フロイス(Luís Fróis 。1532年 – 1597年7月8日)を指します。

■戦国・安土桃山時代の「イエズス会宣教師」と「京都の禅僧」の邂逅

 以下、『宗教で読む戦国時代』を引用します。

「都(小野寺注:西暦1565年の戦国時代の京都。足利室町幕府の末期の「都」)の人々は、(小野寺注:仏教の)各宗派の説教にかなり通じており、宣教師に対しても、なぜキリスト教がそれらより優れているのか説明を求めた。まずはルイス・フロイスの証言を聞こう。『当所では、土地の出身者であれ他国人であれ、聴聞者には決して事欠かない。当国の人は皆、(中略)また思慮深く、よき判断力を備え、道理に従順な人々であるえから、(彼らが)洗礼を受けるに至る前に、単に明白など売りによって彼らの宗旨(小野寺注:現在、信仰している仏教の教義)に反駁するのみならず、デウスに関する話題について彼らに浮かんだ困難と疑問とに答えなければならない』(1565年6月9日書翰)。
 だから日本の仏教について何も知らないような宣教師の説教は軽蔑して聞こうとはしなかった。
『当日本地区、特に彼らの学問と偶像崇拝が最も盛んなこの都の国において、ここに駐在する司祭らには、新たな別種の学問、すなわち日本の8つの宗旨を学び、研究することが、その信奉者らがここに来るたびに彼らと議論するために必要である。何故ならそれらの宗旨を知らず、また宗旨の書物の根拠を多数指摘して論破する術を知らないと、彼らは我らを軽視し、聴聞することにもほとんど感銘を受けないからである』(同上書翰)。そのため宣教師たちには『明白な道理をもって彼らの宗旨の誤りを示し、彼らがそれに懸けている期待を全面的に消し去ること』が必要であり、この目的のために『司祭は修道院の2、3名の青年が答弁を学び、異教徒らと容易に語りうる術を知り、彼らの誤りをよく理解しうるように、毎日、講義を行っていた』(同上)。
実際、京都では各宗派の説法が盛んに行わえており、宣教師たちもこうした説法を聞きに行き、布教の参考になる知識を得ようと試みている。京都に到着してまもなく、聞きに出かけにいった説法について、フロイスは次のような報告をしている。『入口や廂(ひさし)まで男女で一杯であり、少なくとも2千人は居るようだった。(中略)』(1565年4月27日書翰)。
 『説教師が説法の中で見えたその声、成熟、温和さ、そして立居振舞は、間違いなく尊敬に値するものである。説法のやり方は、彼の前に置いた書物の内容を一節読み、それから非常な才気をもって説明するのであるが、(その才気たるや)内容を理解できるガスパル・ヴィレラ(小野寺注:ヴィレラは日本語を解し、仏教の説話に出てくる宗教用語に通暁していた)も、その場に居合わせた他の者たちも、彼の優れた技術とやり方を賛嘆するほどのものであった。そしてこれからキリシタンたちに対して、彼らの嗜好と言語に合せて説法する際により良く振舞うために、幾らかの教訓を引き出すためにも(説教を聞きに)行ったことの利益は少なくなかった』(同上)。(中略)いくら文化の中心である都であっても、文字の読める人々の数は戦国時代の当時、やはり限られていたであろう。それでは、なぜ少なからざる人々が宣教師と議論できるほど、仏教の宗旨について知っていたのだろうか。当時の京都では頻繁に、人々を集めての説教が寺院などで行われており、人々は文字を知っているか否かにかかわらず、仏教の教説について、耳から知っていたからだと考えられる。次のフロイスの書翰を見てみよう。
『当地方(都)の人々は己の宗旨にはなはだ詳しく、学識も深いので、田舎の人であろうとも、キリシタンになるために来たと自ら言う者はいまだかつてなく、むしろ彼らが通常目的としているのは、ただひたすら聴聞することである。彼らの宗旨の欺瞞と福音の真理を説くと、彼らは疑問を呈し、もしその回答が満足のいくものであるか、または彼らの心の土がデウスの種を迎える準備が整っているならば、多いに奮い立って洗礼を受ける』(1565年6月30日書翰)。(中略)さてこれまで述べてきたような宗教的環境で育った日本人たちは、宣教師の説教を聞いてどのように感じたのだろうか。さまざまな反応の一つとして興味深いのは、仏教とキリスト教とは同じではないか、という聴聞者の反応である。例えばバルタザール・ガーゴは報告書の中で次のように述べている。『そしてそれ以降(宣教の害となりうる50以上の言葉を変更して以降――引用者)に生じたことは、これらの人々がかなり以前から私たちの事柄が彼等のそれと同一の事柄であると言っているのを聞いたことでした。なぜなら、私達が慈悲を施すようにと言いますと、彼等もまた自分達の宗派においてそのことを言っており、罪の赦しも同様に与えられているからです』(1565年9月23日書翰)。(中略)同様の報告はルイス・フロイスも行っている。「悪魔は彼ら(日本人)に幾つかの事柄においてキリスト教のそれに酷似している外面的な儀式を与えることに尽力した。そのことで(大変よく似ているが故に、日本人が)われわれ(宣教師)が彼等に説いていることと、彼らに有していることとは、総て同じ一つの事柄である、しかしながら、深く聞くときにはたちまち混乱してしまうのだと言うようになった。彼らは三位一体にして1つである阿弥陀、そして釈迦は12人の弟子と彼の生涯について4人の年代記作者をもつほどの無限の奇跡をもった人類の救い主であると言うのである」(1565年1月20日書翰)。(中略)言い換えれば、悪魔を引き合いに出さなければ、説明できないほど似ているものが(小野寺注:カソリックと)仏教に多いということでもあろう。ルイス・フロイスは日本人の「異教徒」が宗教上の論争にきわめて習熟していることを報告して次のように述べる。
 『彼らの多く、特に僧侶は雄弁であり、言葉巧みであり、彼らの教義がよって立つ直接の始原についての知識のない者は、しばしば、彼らが擁護することと我ら(宣教師)が保持する事柄とが、同じに見えずにはおれないだろう。彼らは外見上、彼らの神々への信仰と礼拝とに、様々な色合いを付す術を知っているために、(その色合いにより)深い推理なしに彼らの用語ないし命題をただ受け取ると、最高の、唯一の、真実の神と、世界の救い主以外のものを扱っているとは思えないのである。しかし、その本質と最終的な結論は、総て欺瞞であり、純然たる誤りである』(1567年7月8日書翰)。
つまり僧侶らの説く仏教の教理と宣教師らの説く教理とが、よほど注意深く聞かない限り同じに見えるほど酷似していることはフロイスも認めていたのである。そして先ほど見たようにフロイスは、キリスト教の神と阿弥陀を、イエス・キリストと釈迦を日本人が混同しているとの報告をも行っている」
引用元: 神田千里氏『宗教で読む戦国時代』(講談社選書メチエ)

 それでは、仏教の僧侶とイエズス会宣教師との間で戦われたという宗教の教説の是非をめぐる論理力を競う論戦の様子は、具体的にどうであったのだろうか。

 ここで、キリスト教を信仰する方のなかには、ある宗教を信仰するのは、他の宗教や他の宗派と比べて、それの宗教・宗派が説く内容が、論理的に最も筋が通っているから(信仰する)というのではない、信仰とは理性ではなく、ただひたすら信じることによってなされるのだ、というご意見があるのは承知しています。

 ここで一言、注意を促したいのは、この記事で、戦国時代の宣教師の様子を伝えるのは、ただ、当時の京の都に暮らしていた庶民や、知的エリートたる仏教僧たちとの間の宗教論争の質が、『論理の水準でみて』どれだけ高度であったのか、を知るのが目的です。キリスト教を論駁したいなどといった意図や、仏教はキリスト教よりも論理的に優れている、などといったことを主張する意図は、いささかももちあわせておりません。

(以下、再び前掲書からの引用)

「まず宣教師の説くような、世界のすべてを司る絶対唯一の神が存在するかどうかについて、ルイス・フロイスは禅僧たちの反論を次のように記している。『(彼らが)提出する疑問や質問、特に死後には魂も何物もないとし、手で触れることのできる明白さ・現実性以外はこれらの論点や思索的巧緻を望まない禅僧の僧侶たちの(疑問や質問)は、非常に限りがなく、次のようなことを言い出すほどである。即ちもし私達(宣教師)が言うようにデウスの存在が真実であり、かくも遅れて日本人に伝えたのであるならば、現在まで何処にその善良さが隠されていたのか』(1565年3月6日書翰)。
 禅僧の僧侶たちは、宣教師たちの説く哲学的思弁を受け付けず、具体的な論点について反論して来るから、もし宣教師の説くようなデウスが存在するのなら、なぜヨーロッパに比べて非常に遅くなってから、日本人にその存在を伝えようとするのか。もしその本質が宣教師の言うように善良であるならば、その善良さを発揮して、日本人を救うためにもっと早くその存在を伝えようとしたはずではないか、と反論して来るという。要するに人類を救うという善良さを本質とする絶対神が、日本人だけは現在まで放っておいたという説明は矛盾に満ちているではないか、というわけである。
                 ( 中略 )
第3の反論は、やはり霊魂の存在についてである。引き続きフロイスの報告を見よう。
『理解力、自由意志、記憶力』それに『見解・意見』をもつ判断力があり、これらこそが人間に特別な不滅の霊魂がある証である、と説いたことに対し、禅僧が疑問を述べている。それはこうした人間の属性や資質も、人間の肉体と離れたものではないからだ、というのである。わかり易くいえば、人間の『理解力、自由意志、記憶力』なども肉体が衰え、老化していけばやはり衰えていくではないか。こうした属性は『総て肉体に変質していく』のであり、死ぬ時には消滅してしまうだろう。どうしてこれらの属性が不滅の霊魂の証なのか、『不死の兆候』でさえあいではないか、というわけである。」
引用元: 神田千里氏『宗教で読む戦国時代』(講談社選書メチエ)

■実は情報感度にも戦略・戦術力にも長けた日本人

 日本人は情報(インテリジェンス)感度に弱い、戦略立案と実践に弱い、という「誤った自己暗示」に、戦後久しく、日本人は罹患しているように感じられます。

 それは、先の大戦で、この国は、情報収集と分析に国力を割く意識が低下しており、わずかに集めた貴重な国際情勢に関する情報(インテリジェンス)も、その大半が政策決定過程と戦争指導過程に生かされることがなかったことからくる、いわば敗北感に由来するものだと見ることができます。

 若いときから、実地にいやおうなしに乱世に投げ入れられたり、ミッション(任務遂行)の責任を与えられると、日本人は歴史上、「必要が発明を生む」式に優れた才覚を発揮してきた。

■ペリーとの直接交渉で力を見せた「主席交渉官」・林 復斎

 ここで、慶長年間から、嘉永6(1853)年のペリー来航に時間の針を進めます。

 2011年9月23日にNHK BS2で放送された番組に「BS歴史館 シリーズ あなたの常識大逆転!(2) 幕末・日本外交は弱腰にあらず!~黒船に立ち向かった男たち~」があります。

 この番組では、近年の歴史研究の結果、「日米和親条約の段階では、日本は(アメリカが要求にあった)開国していない」、つまり、米国大統領の親書を携えてきたペリー提督の砲艦外交に屈せずに、実質的には、幕府の「お家の定め」であった(オランダと清国以外への)「開国」・「自由貿易」を譲ることなく、ペリー(ペルリ)から押し付けられたそれらの要求を、限られた部分的な形で行うことで交渉妥結に持ち込んだ、というのです。

 ペリーとの交渉記録を記した『墨夷応接録』を紐ときながら、番組ナレーションは言います。「つまり、ペリーは(林大学頭・林 復斎(1801-1859)を相手に)日本を開国させられなかった」「日米和親条約の段階では、日本は鎖国を事実上、維持していた」(佛教大学講師・町田 明広氏)と。そして、都留文科大学学長の加藤祐三氏は「日本外交(の水準)は幕末期が一番だった」という感想を漏らしています。

 当時、「主席交渉官」としてペリーを迎えうけたのは、昌平坂学問所学頭(校長)であった林 大学頭(はやしだいがくのかみ)でした。(林家は代々、外交文書の編纂と所蔵管理に責任をもつ家でもあった)

 1853年、林は以下の回答を行うことで、ペリーをいったん追い返します。

・ペリーが求める「漂流民の保護」と「薪水の供給」は、これまでも長崎で幕府が行ってきたところであり、改めて交渉すべきことはなにもない。

・「貿易」は、幕府の祖法に触れるものであり、簡単には方針を変えられない。

 翌年、9隻へと艦隊の艦数を増やしてやってきたペリーは、「交渉開始を祝う祝砲」として、50発を超える砲声を艦隊から日本に浴びせかけたのに続けて、「貿易」を受け入れるよう、林に迫ります。しかし、林は、顔色ひとつ変えず、身動きひとつせずに、前回伝えたのと同じ回答を、堂々と、きっぱりとペリーに伝えたといいます。

・ペリーが求める「漂流民の保護」と「薪水・食糧の供給」は、これまでも長崎で幕府が行ってきたところであり、改めて交渉すべきことはなにもない。今後も継続する。

・漂流民の保護も行う。

・「貿易」は、幕府の祖法に触れるものであり、簡単には方針を変えられない。

 これに対して、ペリーは「日本は難破船を救助せず、漂流民を罪人同様に扱っているではないか。このような状況が続くならば、貴国と戦争になる」と恫喝する。

 しかし林は、ペリーが指摘した事象は、すでに現在はおこなわれいない。それは、ペリー来航の11年前に廃止された「異国船打払令」が実施されていた一時期に見られた光景であり、「打ち払い令」の施行前も、11年前に「打払令」に変わって「薪水給与令」が再施工されるようになって以後のいまも、幕府・諸藩は、漂流民を保護し、薪水をすすんで提供しているのだと切り返します。さらに、ペリーが主張した「漂流民を罪人のように取り扱った」とする事案は、「ラゴダ号事件」(嘉永元年・1848年)の一件であり、その原因は、アメリカ人の船員どうしの内紛で殺人が行われいため、彼らの熱が冷めるまで、一時的に長崎の出島に留め置いたのみだ、と回答しました。

 ペリーは、「それならばなにもいうことはない。これまでどおりよろしく頼む」と回答したといいます。

 さらに「日本にとっても利益となる貿易を行うべし」とするペリーに対して、林は「我が国は国内の物産が豊かであり、すでに国内市場は産物が行わっているため、外国との交易は不要」と回答。林は、前述のとおり、ひとたび欧米諸国に対して交易を許せば、江戸を始めとした諸藩の領地にも阿片が流入することを強く危惧していたと番組は解説します。

 林はペリーに対して「冒頭、貴殿(ペリー)は今回の来航の目的は、(漂流民保護の)人命尊重を日本側に求めるためだと述べられたが、交易は人命尊重とは関係がない。交渉はすでに終わったのではないか」と畳み掛けたといい、ペリーは「たしかにあなたのいうように、交易の(を要求する)一件は人命尊重とは関係がない。交易の要求は強いて主張しない」と引き下がりました。

 日を改めて行われた交渉で、ペリーは、長崎の出島以外の開港地を、日本全国に8箇所以上もとめてきました。それにより、事実上の交易開始に持ちこもうとしたとされます。

 「よく調べたうえで、東南のいずれかの地に開港地を選定して、後ほど回答する」とする林に対して、開港地の選定・即決をその場で迫るペリーに対して、林は、「そこまで開港を急がれるのであれば、なぜ昨年、幕府と接触したときに開港地選定を願い出なかったのか。当方は、長崎での交易で米国は異存なし、と了解していた」と、返します。ペリーは「3日待つ」と引き下がったのに対し、林は「7日後に回答する」としたのち、約束の7日後に、「下田と函館の2港を開港する。しかし、あくまで米国は交易が目的なのであるから、港から「7里以内の遊歩地」のみを、米国人商人が自由に立ち入ることのできるエリアとする」としました。実は、下田の港から7里の位置には、「天城峠(あまみとうげ)」 があり、日本の庶民や武士とは顔をあわせることのなく、アメリカ人商人たちが、幕府飲目を盗んで、勝手に領民と交易を行うことができない自然環境であったと、東京大学教授の三谷 博氏は、番組のなかで解説します。さらに、交易の対象品目についても、和親条約のなかで子細に定義され、明記されたといいます。

 半年間、日本の地に滞在したペリーは、『ペリー提督日本遠征記』のなかで、日本の職人の手仕事の精緻さや、庶民の探究心の強さに驚嘆し、「日本人がひとたび文明世界の技能を手に入れれば強力なライバルになるだろう」という一文を書き記したとのことです。

 なお、番組では、ペリー艦隊にはLawyer(法律の専門家)が一人も乗艦しておらず、林に受諾を迫った条約の案文は、アメリカが阿片戦争後に、清国と締結した「不平等条約」である「ワンシア条約」の一節を、切り貼りして作製したものであったが、「和平」などの語句を捉えた林らは、「日本と戦をおこなっていない米国が、なぜ、戦の後に取り交わされる『和平』条約という言葉を持ち出すのか」とすぐに気付き、(外交文書を取り仕切る家であった)林は、これは阿片戦争の講和条約からとってきた一文に違いない、などと、ペリー側の交渉戦術を見抜いていた、といいます。

 日本はその後、「首席交渉官」が林以外の別の人物である目付・岩瀬 忠震に変わり、米国側の交渉代表権者も、米国領事タウンゼント・ハリスに切り替わった「日米修好通商条約」をめぐる交渉では、全面的に開港・自由貿易を行うことになります。しかし、少なくとも「日米和親条約」の段階では、米国と国交の友誼を宣言することだけに留めることができた、というのです。

 なお、番組の後半部では、「30代の若さで目付けに就任」し、「講武所」「蕃書調所」「品川砲台建設」を歴任していた幕府きっての秀才・岩瀬を全権とする日本側の交渉団が、米国領事ハリスと対峙した日米修好通商条約においても、日本はただ押し切られる形で条約を締結したのではないといいます。なお、岩瀬は、林復斎の甥(おい)にあたるといいます。

《2 「開国をきっかけに幕府財政の立て直しを目指した交渉全権・岩瀬 忠震」に続く》

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AI研究家 小野寺信

AI研究家 小野寺信

1944年、長野県生まれ。カナダ在住。1930年代の「物」論考、「哲学への寄与」論考など、いわゆるハイデッゲルの中期思想と、西田幾多郎ら京都帝大の「場所の論理学」の思想の架橋を志すも、九鬼周造の「偶然性の哲学」の文章に触れて、己の非才を悟り、断念。計算機科学と知能の計算論的再現に惹かれ、人工知能の研究に励む日々を送る。若いAI産業人や大学・大学院生に対して、カオス理論と身体性に立脚した「米国の後追い」ではない、我が国自身の「AI研究アプローチ」が実在することを知らせる必要性を痛感し、連載をスタートした。
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