今回の記事では、ストックホルム駐在武官・小野寺信が登場する。同姓同名の本記事執筆者との混同を防ぐため、本記事執筆者について言及する際は「本記事執筆者」と記述します。

 「日本はドイツが、バトル・オブ・ブリテンに敗れた頃に三国同盟を締結し、今またソ連侵攻が挫折しようとした折に対米戦に突入したことになる」――著書『消えたヤルタ密約緊急電 -情報士官・小野寺 信の孤独な戦い』(新潮選書)の227頁目で、岡部伸氏は、そう書き綴っています。

 昭和に入ってからの日本の政府(首相・外相等)と軍部(軍政を預かる陸海軍省と軍令を預かる参謀本部・軍令部)はなぜ、このように2度、3度と過(あやま)てる方向へと国家の進路を取り誤ったのでしょうか。

 3度目と述べたのは、大戦末期の日本が連合国との和平交渉の仲介役をヨシフ・スターリン書記長率いるソ連に依頼しようとしていた「過ち」を指しています。このとき、スターリンはすでに、米英ソの首脳部がドイツ降伏後の戦後秩序のあり方をすり合わせた「ヤルタ会談」(1945年2月4日-2月11日)のいわゆる「極東密約」条項によって、ドイツ降伏後、「3ヶ月後」にソ連が対日参戦することをアメリカ(FDRこと病床のルーズヴェルト大統領)と英国(チャーチル首相)両国から諒解を取り付けていたからです。

 スターリンが米英から対日参戦の「諒解」を取り付けたと述べましたが、この時まだ原子力爆弾の実験を成功させていなかった米国は、日本を降伏に導くために、ソ連の対日参戦を望んでいた状態にありました。その後、1945年7月にトルーマン新大統領(FDRの死去を受けて、副大統領から昇格)・スターリン・チャーチルが一堂に会した「ポツダム会談」の開催中に、アメリカは原爆実験に初めて成功し、トルーマンは前任者のルーズヴェルト大統領(FDR)がスターリンに繰り返し要請していた対日参戦を求める理由がなくなりましたが、すでにスターリンは対日参戦を決意していました。

 歴史のその後の帰趨がすでに(史料が公開された限りの範囲で)見えている「今日の視点」から、当時の日本の国家指導部の非を断じるのではありません。1930年代半ばから1945年の日本を、「今日の視点」から断罪するのではなく、「当時の視点」「同時代の日本人の視点」から断罪しようと試みるのが、今回の記事です。

 「同時代の日本人」、それも、政府(首相・外務省本省)と軍部に対して、日本の取るべき進路を公的に進言する立場にあったアメリカ駐在海軍武官室(横山一郎武官ら)と、ストックホルム駐在武官・小野寺信の「視点」から、「同時代」の東京の本省(外務省・陸海軍省)と参謀本部・軍令部が「過てる進路」に足を踏み込みつつあることをあることについて、幾度となく繰り返し警鐘を鳴らし、熟慮と再考を求めていたのにもかかわらず、東京の首脳部はついに、「既定路線」から足を抜くことなく、三度、国の舵取りを誤り、歴史上初の対外的な敗北へと国を追い込んでしまったのです。


■時代環境によってその能力が変質する日本人

 以上、戦国・安土桃山時代の京都に暮らす庶民と仏教僧(特に禅僧)が批判精神をもって物事を合理的に考えることに長けていた(耳で説法をきき、まわりの人達と議論しあう習慣があり、自然と鍛えられていた)様子を見てきました。

 また、大統領からの親書を携えたアメリカ全権・ペリー提督と駐日アメリカ公私・ハリスと対座した幕府側の交渉全権・林 大学頭と岩瀬 忠震らが外交談判に際して見せた、議論の構築力の論理的な強靭さ、米国側が対日交渉で獲得したい要求の核心(譲れない要求の根幹)と譲歩可能な派生的な要求事項とを、交渉が始まる前の事前の情報収集により綿密に調べ尽くし、相手が譲歩可能な要求事項はあざやかに切り捨てていく交渉能力を見てきました。

 戦国・安土桃山時代と幕末の2つの時代は、農民・町人にとって武士や幕閣の重臣にとっても、「明日はどうなるかわからない」動乱の時代であり、前者の時代においては、戦乱で町を焼かれ、近親者のなかに死人も多くでるなかで、現世や来世に救いを求める人々の切実な思いが、救いを授けてくれる教えを、道理(「論理」「理性」)を尽くして自ら選り分けていく強い動機となったことが彼らに、自らの頭で考え、議論する力を「実地に」に身に着けさせたのかもしれません。

 このことは、後者の時代にあっても、江戸徳川の「太平の世」のまどろみが明けつつあり、幕藩体制という「社会の大枠」「秩序のかたち」が、動揺し始めていた時代にあって、学者であり、外交文書の編纂・管理を預かる林も、林の親戚であり、欧米の異国と向き合う最前線の役所を歴任してきた岩瀬も、紙の上の学問手習いとしての「四書五経」や「戦国の歴史」ではなく、そこから「現世を生き抜く知恵」を引き出すような強いインセンティブ付けがあったのかもしれません。

 この「危機感」のなかで「現世を生き抜こう」とする意識が持続した明治時代だからこそ、日露戦役のさなかの日本人は、ロシアと自国の彼我の力量の差を明確に理解することができ、日本海海戦や「203高地」の攻略のあと、自らの歴史的な偉業に有頂天になって戦線をさらに伸ばしていくことなく、ここが日本の力の限界(兵力・軍費を消耗しつくした日本に対し、ロマノフ王朝はさらなる大艦隊と大規模の陸軍師団を追加で動員可能)と認識し、米国大統領・セオドア・ルーズヴェルトを介して、日露講和交渉に望むよう働きかける「終戦戦略」を発動できたのではないでしょうか。

 こうした明治の時代の陸海軍の姿からは、1936年(昭和11年)、関東軍が進める内蒙古の分離独立工作(「内蒙工作」)を断念させて、(ソ連に備えるために)中国との紛争拡大を諌めるために東京の陸軍中央から飛んできた大本営作戦部長であった石原 莞爾に対して、ここで戦線を閉じて講和を結んだら陸海軍の統制は乱れ、いきり立った将兵を統御不能になるといった言辞を浴びせかけた出先の関東軍参謀・武藤 章ら、昭和の中堅陸軍将校のおもかげを見出すことは困難でした。

 日露戦争中の日本は、ロシアの帝政ロマノフ王朝を内側から瓦解させる諜報謀略工作のために明石 元二郎を潜入させた(その効果の程については、近年、様々な角度から研究がなされている)ほか、戦費調達と対日世論形成のために米国に向けて、セオドア・ルーズヴェルト大統領とハーバード大学留学中に面識を得ていた金子 堅太郎を急派させました。

 その金子は、当時、ロシア貴族に対して心理的な距離感の近く、帝政ロシアに好意的とされ当時のアメリカ社交界の世論を「日本人の性質と理想」と題する有名な演説をカーネギー・ホールやハーバード大学で成功させてことで、次第に日露戦争は義戦であるという見方に立つ対日親和的な方向に誘導させることに成功しました。その結果、ウォール街において、日本国内だけでは消化できなかった日露戦争の戦費調達のための(日本の)戦時国債の購入引き受け手を、当時ドイツ系の大銀行家であったジェイコブ・ヘンリー・シフ(Jacob Henry Schiff, 1847-1920)らを始め、ウォール・ストリートの金融街で販売するというもうひとつのミッションを見事に完遂したのでした。

 明治日本が有していた、そのインテリジェンスに対する情報感度の高さと、戦争は陸海軍力のみならず、戦費調達やロジスティックスが生命線であるという認識感覚は、1930年代に入ると、急速に色あせて劣化していきました。
《2 「なぜ『昭和前期』の日本人はダメになったのか」に続く》

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AI研究家 小野寺信

AI研究家 小野寺信

1944年、長野県生まれ。カナダ在住。1930年代の「物」論考、「哲学への寄与」論考など、いわゆるハイデッゲルの中期思想と、西田幾多郎ら京都帝大の「場所の論理学」の思想の架橋を志すも、九鬼周造の「偶然性の哲学」の文章に触れて、己の非才を悟り、断念。計算機科学と知能の計算論的再現に惹かれ、人工知能の研究に励む日々を送る。若いAI産業人や大学・大学院生に対して、カオス理論と身体性に立脚した「米国の後追い」ではない、我が国自身の「AI研究アプローチ」が実在することを知らせる必要性を痛感し、連載をスタートした。
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