さて、本連載の中で戦国時代の京都の庶民と仏教僧の(イエズス会宣教師を相手にした)論理的思考力の強度をとりあげた後に、幕末の2つの条約(日米和親条約および日米修好通商条約)に結実した2つの外交(林・ペリー、岩瀬・ハリス)をとりあげ、さらにいま「先の大戦」の日本を振り返るのは、ひとえに、いつの時代にも――3つの無謀な選択肢を選んでしまった「あの時代」の日本においてすら――この国には優れた情報収集力と情報分析力と、それを個人(宗教の選択)や国のとるべき進路について、(必ずしも最良の選択肢ではないにしても、少なくとも大きな)誤りのない選択肢へと昇華させる情報評価力・政策提言力が存在したことを、近年、世に刊行された優れた研究書(「先の大戦」についてはイギリス国立公文書館や(「ヴェノナ文書」の公開を含む)アメリカ国立公文書館の情報公開と、日本国内における史資料の発掘・発見もあり)を取り上げて、相互に結びつけることで、この記事の読者の方々に触れて頂くためです。

 この記事は、小谷氏や岡部氏らの研究成果の断片を寄せ集めたパッチワークに過ぎず、それ自体、なんら歴史研究として新たな光を放つような新発見なり、新たな視点は提供できてはおりませんが、この記事が主眼とする「英米の後追いではない」「言語創発AI」のアプローチをこのあと連載の後半部で論じていくにあたり、「情報」を理知的、論理的、数理的、統計解析的に取り扱うことで、世界の熾烈を極める「AIビジネス競争」の世界や、国際標準技術規格の構築を目指す政府渉外Public Affairsの「ルールづくりの修羅場」において、「情報」「論理的思考力」「数理統計解析力」「インテリジェンス力」「戦略構築力」と、世界のなかでともに戦う共存共栄のパートナーを見つける「確かな力」が、この国にはたしかに歴史を通じて連綿と地下水脈のように流れ続けているのだという「事実」に自信をもってもらうためです。

 世界のなかで「パートナー」を見つける力としては、「ブ」情報を東京の大本営に打電し続けたストックホルム駐在武官・小野寺信が1つの大きな北極星となります。

 岡部伸氏が著書のなかで繰り返し強調されているように、小野寺が「白人だらけの欧州大陸」のなかで英国情報部やアメリカ情報部が最大限に警戒して、その動向を追い続けるようになるまでの強固で強靭な情報収集・分析・評価活動を展開しえたのは、ひとえにこの「パートナー」をポーランド亡命政府・軍参謀本部およびエストニア参謀本部情報部長らを始めとして、北欧とドイツ参謀本部内の参謀と軍官僚のなかに得ることができたからです。(日露戦争以来、日本がポーランド人のなかに築いてきた)ポーランド人の日本人に対する信頼感情を先輩世代から受け継ぎつつも、その人間的魅力をもって前の世代よりもさらに強固に育て上げたことによって、その活動を可能にしました。

 ポーランド軍参謀本部情報部とエストニア軍参謀本部情報部は、すでにドイツとソ連、イギリスの内奥の隅々にまで質の高い諜報・謀略工作網を張り巡らせており、ドイツによるポーランド占領によって、ポーランドの政治指導者と軍事指導者がロンドンの「亡命政府」と「亡命政府参謀本部」に移動した後、小野寺はひそかにベルリンや欧州各地に点在していた「満州国」公使館の官吏として、ポーランド人情報将校を雇用したり、「満州国国籍」の日本人パスポートを彼らポーランド人情報将校らに外務省の杉原千畝(1939年からリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理。1940年6月のソ連軍によるリトアニアに進駐後は、ドイツやルーマニア領事館に赴任)に発給させて、日本と満州国の外交官特権によって保護し、活動の場を与えました。

 小野寺はこのほかにも、ポーランドやエストニアの情報将校たちがエストニアやロンドンのポーランド亡命政府や欧州各地の情報将校に機密情報を伝達する際に、日本と満州国の「外交行嚢」(がいこうこうのう)に入れて、陸路と海路を移動させる方法によって(ドイツ軍によるポーランド占領後)ドイツ軍参謀本部の情報将校として奉職し始めていた元ポーランド軍情報将校や、旧ポーランド領土のうちソ連が占領・接収・吸収していた地区で活動していたポーランド人情報将校らが収集したドイツとソ連の軍中枢の内情を捉えた機密情報を小野寺が保護する形で、ポーランドやエストニア、ロンドンの間を身体を流れる血流のごとく循環させるチャンネルを提供していたのです。

 ドイツの秘密警察(ゲシュタポ)や親衛隊秘密情報部は、小野寺がドイツ国内で活動する元ポーランド人情報将校に活動の場を与えていたことは見抜かれていましたが、1941年にポーランド軍の諜報網の中核要員であった(元ポーランド参謀本部将校の)ヤクビャニエツ大尉がゲシュタポによって逮捕されるまで、小野寺は彼らを保護し続けました。小野寺は同時に、ドイツ軍陸軍武官室からも信頼と尊敬を勝ち得ており、彼らポーランドの諜報網やエストニア情報部長らが提供したソ連軍の内情をドイツに提供することで、ドイツとの関係も維持していました。

 ポーランドにしてみると、その歴史を通じてドイツ帝国とロシア帝国(・ソ連)に国土を蹂躙されてきた経験から、日露戦争に勝利した日本に対して、ポーランド(再)独立の勇気を鼓舞されて以後、シベリア出兵中、日本軍が(帝政ロシア軍に編入されていた)ポーランド人(ロシア軍)将兵の捕虜を丁寧に取り扱ったりしたことなどの恩義を日本に対して感じていたほか、小野寺の保護を通じて欧州全土から収集・獲得したソ連軍の情報をロンドンとドイツ側に流すことで(占領後、国土返還交渉の余地がまだあるドイツ軍とは異なり、歴史的にみて一度占領した土地を(半)永久的に手放すことのない)ロシア・ソ連軍の元ポーランド国土の支配領域を、少しでもドイツ「第三帝国」軍がソ連から取り返すことで(戦後のドイツに対する領土回復・独立回復交渉に)期待の芽を残すという冷厳な現実政治の観点からの政略・戦略をもって、亡命ポーランド軍参謀本部は(ポーランドをソ連とともに分割占領した敵国であるドイツと同盟を組んでいた)日本の小野寺に対しても、ソ連やドイツの情報を(ロンドンのMI6に提供する以上に)提供していたのでした。

 なお、ポーランド軍は暗号解読技術でも当時、世界の最高峰の技術を保持しており(エニグマ解読のきっかけとなった初期型「エニグマ」の複製機を英国に提供したのはポーランドです)、東京の日本陸軍参謀本部特種情報班(いわゆる「特情」班)にポーランド軍暗号技術将校が出張講義に出たことがきっかけとなり、日本陸軍は、日本外務省よりも日本海軍よりもはるかに強固な暗号を用いるようになり(日本の外交暗号と海軍「D暗号」は日米開戦後、まもなく米英側によって解読されていましたが、日本陸軍の暗号だけは、1943-44年頃まで、アメリカとイギリスは解読に成功しなかった、とされています)、また同時に、英米の新聞や雑誌などの公開情報から敵の戦略戦術を推量するOSINT(公然情報調査)の手法も、飛躍的に高めたとされています。

 なお、小野寺は1944年にイギリス・アメリカ・フランス軍が使用していたクリプトテクニカ社の「M-209」暗号機の購入に成功し、ドイツから伊号潜水艦によって東京の大本営特情班に同暗号機3台の輸送に成功しており、このことがきっかけとなり、日本陸軍はアメリカ・イギリス両軍の暗号解読作業が急速に進展し、日本の外務省も海軍も成功しなかったアメリカの「ストリップ暗号」の解読に成功したことにも貢献しました。

 今号の記事では、小野寺信という米英情報部が「全欧州規模の対独・対ソ諜報網を築き上げた」と「日本の欧州大陸におけるスパイ・マスター」とみなした傑出した情報参謀であった小野寺が、この構造のなかで辿った経過を岡部伸の文献を中心に紹介することで、日本が冒頭触れた三国同盟締結・対米英蘭開戦・ソ連への対連合国和平交渉の仲介依頼という3つの過誤を踏んでいく過程を追います。

 そのことを通じて、たしかに日本には当時、世界屈指のレベルの情報分析力・進むべき道を自ら定義し、見出す力が合ったことを確認します。しかし同時に、そのような情報分析力とすすむべき進路を見出す力がありながらも、なぜ戦後の日本人が日本人の論理性や情報分析力や国際政治を勝ち抜く力に(世界第二位の経済大国を築いた時点で、客観的に見て、日本は戦後秩序を成功者として間違いなく生きていた事実がありながら――)自信を喪失するに至るほどの大敗北を喫してしまったのか。

 明治以来、荒尾 精や石光 真清、明石元 二郎や岩畔 豪雄といったすぐれたインテリジェンス・オフィサーを生み出しつつも、組織的にそうした人間を育成する機関は、1938年4月の「防諜研究所」(のち、後方勤務要員養成所を経て、中野学校に名称が変遷)に至るまで生み出すことができなった日本。そして、その中野学校から2千名を超える卒業生を輩出しながらも、「作戦部」と「情報部」の間の関係整理を、首尾よく果たすことができなかったために、「政策決定・国策決定」に活かされざる貴重な世界レベルのインテリジェンスが闇へと繰り返し葬りさられてしまった日本の「欠陥」がどこにあり、いまをいきるわたしたちの世代が、日本社会や日本型組織に深く根ざしているかもしれないそのような「欠陥」を、どのようにして除去していくことができるのか。

 あくまでも、今を生きる日本の欠点を克服して、強い部分・秀でた部分をいま以上にさらに伸ばしていくことで、「日本独自の言語創発AI」のアプローチを携えた日本人が、胸を張り、自信をもって、ビジネスという戦場で世界のなかで世界と勝負できるようにしたい。

 そして、「日本発の言語創発AI」を、世界の国際標準技術のルールに昇華させて、TPP・RCEP・日EU-EPAや日米EPAなどの国際経済ルールに反映させるとともに、日本人の・日本人による・日本人のための、ひとりよがりで独善的な押し付けのスタンダードではない、その「AI技術デファクト・スタンダート」のもとで、日本人以外の国の個人なり経済主体なりが、繁栄を享受できるようにしていくことで、日本人以上に、彼ら外国の人々が「日本初のAI技術スタンダード」を擁護し、守り育てていきたいと思うようになる世界を、実現させたい。

 この連載シリーズのなかで、これまで戦国時代から幕末、そして、今回の1930-45年の日本人とその国の軌跡・来歴・出自を取り上げるのは、以上のような着想と構図のなかでの取り組みになります。

 それでは、日中戦争の拡大と日米戦争へと至る「日本の足跡」を次の節から1つ1つ確認していきます。
《2 「憲法レベルの統治構造の問題」に続く》

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AI研究家 小野寺信

AI研究家 小野寺信

1944年、長野県生まれ。カナダ在住。1930年代の「物」論考、「哲学への寄与」論考など、いわゆるハイデッゲルの中期思想と、西田幾多郎ら京都帝大の「場所の論理学」の思想の架橋を志すも、九鬼周造の「偶然性の哲学」の文章に触れて、己の非才を悟り、断念。計算機科学と知能の計算論的再現に惹かれ、人工知能の研究に励む日々を送る。若いAI産業人や大学・大学院生に対して、カオス理論と身体性に立脚した「米国の後追い」ではない、我が国自身の「AI研究アプローチ」が実在することを知らせる必要性を痛感し、連載をスタートした。
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